行きの電車で、ばったり山根女史と遭遇してしまった。通勤の熱気が広がり、湿度と相成って非常に蒸し暑い。俺はしばし迷ったが、別に話す話題もないので、無視することにする。しっかし暑いな。運動もしないのに汗が出る。
ふと、山根女史と目が合った。これはなかなか難しい展開だ。これで無視すると、まず確実に彼女は機嫌を損ねるであろう。それは辛い。かといって彼女のところまで行くのは、現在の乗車率を鑑みれば、不可能ではないが困難であることは瞬時に理解できる。ここは軽く会釈しておく程度が、人間関係を円滑に動かすのであろう。
そう思って将に首を動かさんとしたところ、何者かに肩をつつかれた。反射的に振り向くと、濱田が居た。先ほどまではいなかったような気がするが、いつの間に来ていたのだろうか。余談だが、この路線はうちの学生の半分ほどが利用している。濱田がここに居てもなんら不思議はない。
濱田は意外なところで俺に会えた事を純粋に楽しんでいるようで、うれしそうに口を開いた。
「おはようございます、先輩」
「ああ、お早う」
「先輩、いつもこの電車なんですか? 学校着くの、ぎりぎりになりません?」
「間に合えばいいんだ、間に合えば。それに、お前だってここに居るじゃないか」
「今日はいつもより一本遅いんです。私、こう見えて遅刻はゼロですよ?」
「まだ学校が始まって二ヶ月しか経っていないだろうが。誇れるものじゃない」
「なんで先輩はそうやって人が喜んでいるのに水を差すんですか?」
「ついでに言っておくが、静かにしてろ。周りの人に迷惑だ」
「別に携帯使っているわけじゃないですし、いいじゃないですか」
「静かにしろ」
俺の語気にようやく気がついたのか、しおらしく黙った。まったく、もっと早く気づいて欲しいものだ。
電車が停まった。次の駅が学校の最寄り駅になる。俺は思い出して山根女史のほうを見たが、吊革に手を置いたままそっぽを向いている。会釈しなかったため、怒っているのだろうか。自分に対して礼儀を欠いた人間を怒るにしても、さすがに度が過ぎているな。やむをえない事情があったではないか。俺は思わず濱田をにらんだが、八つ当たりをしているような気がして、すぐにやめた。いったい、何を八つ当たりする必要があるっていうんだ?
「この間から、ひとつ気になっていることがある」
放課後の部室で、柴田がそんなことを言い出した。
「発言を許可する。続けたまえ」
俺の許可を受け、柴田は話し始める。
「ここ最近の雨の多さは、実に問題だ。確かに梅雨時の雨は、夏場に発生するであろう水不足の被害を減らしはするであろう。その点において、雨を否定するのは、比較的水不足になることの少ない東京にいるわれわれのエゴであり、西日本の各地でそんなことをいったら、袋叩きにされてしかるべきだ。よって俺は雨の全てを否定しようとは思わない。そこのところを配慮していただければと思う」
「・・・相変わらず柴田先輩は前置きが長いですね」
濱田がいかにも退屈そうにつぶやいた。失礼なやつだ。柴田の演説から前置きを取ったらそれこそ何も残らないというのに。こいつの言いたいことなんて、普通の人間なら五秒で本題に入れる。こいつの演説の面白さは、前置きにあるのだ。
「本題に入る前に、これだけは断っておかなくてはと思ってな。では、本題に入ろう」
こいつはここからが長い。
その後しばらくの間、飢えや渇きで発展途上国がどれほど苦しんでいるか、エルニーニョ現象に関する考察、地球温暖化と海面の上昇、それに伴い、京都議定書におけるアメリカの対応について柴田は意見を述べ続けた。その全てを書くとひとつの論文ができるほどだが、悲しいことに俺はエルニーニョ現象についての考察の導入部分で聞く気がなくなったので、それについて記すことはできない。
「さて、雨の起こす諸問題は、無論、学生の生活にも影響する」
ここからが本題だ。絶対にそうだ。本題に入るまで三十分はかかっている。濱田はとうに眠そうな顔でうつらうつらしているが、俺は肩を突いて起こす。やつの本題を聞かないと、やつはもう一度はじめからやり直すからだ。
「と言うと?」
俺が先を促すと、柴田は満足げにうなずいた。
「われわれ文化部にも気力の面で多大なる影響が及ぼされているが、やはり運動部の比にはなるまい。サッカー部と野球部、それに陸上部あたりはグラウンドが使えず、今週ほとんど満足に部活をしていないと言う話だ。高校生活において、そこまで部活ができないというのは欲求不満の原因にもなろう」
「・・・先輩たちは部活しなくても全然欲求不満じゃないじゃないですか」
濱田がつぶやいた。が、自己陶酔に浸っている柴田にそれが届くと思ったら大間違いだ。
「ときに、われらが化学部にも、今年は五人ほど新入部員が入った。約一名を除いて、運動部と兼部している」
「ああ、そうだが、それが?」
「なぜ彼らは、運動部の部活がないのに、化学部に顔をださんのだ? 濱田、なにか知らないか? 実は彼らは補習があって部活禁止だとか」
「そういうことはないと思いますよ。大体、来たってやることないんだから、変わらないじゃないですか」
「濱田、別に先輩が部活しないからって後輩も部活をしないというのは根本的な思い違いがある。君が自発的に実験をしないのが間違っているのだ。そこのところは理解しておくように」
「大体、先輩は昨日、部室に顔を出さなかったじゃないですか。どうせ森井先輩と仲良くしていたんでしょう?」
「・・・それは秘密だ」
「今日はどうしたんですか? 森井先輩に飽きられたんですか?」
「何を言うか!」
「じゃ、森井先輩に飽きたんですか?」
「こらこら濱田、柴田をいじめるのもそれぐらいにしてやれ」
俺は二人の会話を止める。これ以上続くと、それこそけんかになりそうだ。
「だってやけにえらそうなんですもん」
「先輩がえらそうにするのは、先輩というものが持つ数少ない特権だ。見逃してやれ」
「じゃあ実験して下さい。化学部の持つ数少ない特権です」
「近いうちにな」
「先輩方、そういって絶対に実験しないじゃないですか」
「濱田、お前俺らをなめるのもいい加減にしろよ?」
柴田の声色がいつもより柔らかい。怒っているようだ。
「事実じゃないですか」
濱田も濱田で、半ば意地になっているようだ。柴田とにらみ合っている。
ふと、柴田の様子が、いつもと違うような気がした。柴田は、頭に血が上ると突発的な行動をとることがある。しかし、普段はおとなしい柴田が怒るには、それなりの理由が必要だ。どうも今の濱田との会話程度が、それを満たしているようには思えない。
「よし、わかった。この雨が上がったら実験をしよう。今度晴れたら、そのときは俺と柴田で実験をする。そうなったらお前も手伝えよ?」
「・・・はーい」
濱田は柴田を少し見た後、いつもよりいくらか高い声でそう言った。
「柴田も、それでいいな?」
「・・・ああ、かまわんよ」
「じゃあ私、今日はこれで失礼しますね。用事があるんで」
「帰れ帰れ」
「その言い方、止めてくださいよね、ほんと」
濱田はそういって部室を出て行った。残された俺と柴田は、すこしそのまま立ち尽くしたあと、どちらともなく椅子に腰掛けた。
それにしても、彼らはいつもどんな実験をしてるのでしょうかね。